移住者の声

居住者物語 Yさんの場合
〜 屋久町移住第一号? 〜

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 Yさん夫妻が旧屋久町の平内集落に移住したのは、今からさかのぼること17年前、58歳のときだ。それまでのYさんは、名古屋市内にいくつものレコード店を出店し、成功をおさめていた経営者。毎日朝早くから出勤し、帰りが午前様になることもしょっちゅうという暮らしで、店のいくつかは名古屋有数の地下街にあるため、太陽を見ないままに一日が終わることもしばしばだった。

 友人の同級生の突然の死がYさんの人生の転機となった。「何のために働いてきたんだろう。今まで何してきたんだろう」。50代半ばにして初めて考え込んだ。「仕事もだいぶやりつくしたし、後継者も育ってきたし、もうそろそろ第一線から引退して、のんびりと好きな釣りでもして暮らしたい」とまわりに相談したところ,家族からも友人からも大いに賛成された。

 ところが、時代はバブル最盛期。名古屋市内はもとより、少し郊外の土地も法外な価格で、またまたYさん考え込んでしまった。いったいどこで隠居生活をしたらよいか・・・。妻の父の実家の高知も候補にあがったが、仕事が忙しくなかなか見に行くこともままならない日が続いた。

 そんなときにたまたま本屋で目にした「田舎暮らし」をすすめる雑誌。屋久島という土地の名前を、不動産情報のページで知った。たまには夫婦水入らずで旅行に行ってみるかと思い立ち、2泊3日の旅に出かけたのが、平成2年の7月12日のこと。Yさんはそのときの日付を今でもはっきりと記憶している。そして、その2泊3日の旅行で屋久島暮らしを決めてしまったのだ。屋久島移住者の中には、旅行で訪れ、その旅の間に島に移住することを決めてしまうというケースが実は少なくない。屋久島に呼ばれるのか・・・。

 Yさんが移住を決めたのは、島に来た次の日の朝のいくつかの「出会い」のおかげ。雷雨明けのモッチョム岳の岩肌の精悍な美しさとの出会いと、自分たちに元気に挨拶してくれる島の子どもたちとの出会いだった。「おはようございます」と見ず知らずの自分たちに挨拶する様子に、「ここでなら暮らしていける」と奥様が直感したのだ。

 旅の間に土地も決め、数ヶ月後には家の建設が始まり、1年後の6月には屋久島への移住を果たした。当時、屋久島に家をたてる人の多くは、住民票や本籍などは移さず、別荘として使っている人が多かったらしい。住民票も本籍も移した人は、屋久町ではYさんが初めてだと役場に言われたそうだ。

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 移住して大変だったのは、地元の人の言葉に慣れること。できるだけ会合には積極的に参加しようと決めたYさん。集落の放送で集合がかかるたび、顔を出しに行ったものの、場違いでとまどうこともあった。そんなときも、地元の人たちはせっかく来たのだからと輪に入れて親切にしてくれた。しばらくは、会合にでてもなかなか言葉がわからず、とまどう場面も数知れず。せっかくの笑い話も通訳してもらって、一足遅く大声で笑うこともたびたび。それでも、Yさんは、地域になじんでいくため、地域の行事には積極的に足を運び続けた。

 移住する人が心がけることは何かと伺うと、一言。「ここに来たときはみんな1年生」。立派な肩書きや職歴、莫大な財産があろうとなかろうと、誰もが移住してきたら1年生だから、集落の先輩たちの意見を聞き、まわりの人たちにならって生活をしていくことが一番大事なこととYさんは言う。

 実は、3年前に一緒に移住された奥様を亡くされている。亡くなる直前、「いい所に連れて来てくれた」としきりにYさんに語られていたそうだ。Yさんは、今も島で一人暮らしを続けている。名古屋に帰ろうとは思えないそうだ。集落の仲間や近所の人たちがひっきりなしに心配して見に来てくれる。夕食を差し入れてくれる。ひとりっきりじゃないといつも思える、都会じゃありえないとYさん。「島の人は、みんなほんとに心底いい人ばかり。ここにいたら孤独死なんてないよ」。 今では集落の子供たちからお年寄りまで、ニックネームで呼ばれ頼りにされている。周りから必要とされる場所がYさんの幸せな居場所だ。

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